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呉起 [2021/11/22 07:00] moepapa |
呉起 [2021/11/22 07:03] (現在) moepapa |
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+ | 文侯が死に、子の武侯が即位すると田文と宰相の座を争うが、これに敗れる。これを不服として、本人に抗議し、軍略・政治力・諸侯への威信、それぞれどちらが優れているかを問い質した。すると、田文は三つとも呉起の方が優れていると述べた上で、「だが、今の主君は年若くして民からの信望も薄い。このような状況においては、私と貴殿とどちらが大役を任されるだろうか? | ||
+ | その後田文が亡くなり、文侯の女婿でもある韓の公族の公叔が後任の宰相となった。しかし公叔は呉起を嫌ったために、妻の弟である武侯に呉起のことを讒言した。そのために武侯は呉起を疎み始め、両者の間は上手くいかなくなった。さらに公叔は呉起を陥れる策略を画策した。武侯へ「呉起を他国に移さない方法がございます。公女を娶らせるのです」といい、その一方で呉起は公叔の家に誘った。呉起がそこで見たのは、公女である公叔の妻が夫を罵倒する姿だった。呉起が殊更名誉を重んじるので、公女を貰うとこうなると思えば話を受けないだろうと見てのことである。呉起はその見込み通りに断り、武侯の懸念は増大。そこへすかさず讒言されたので、察した呉起は楚に逃亡した。その際に「武侯様は奸臣の讒言を聞き、私を理解しない。西河は秦に取られるだろう」と言った。後にその通り、魏は秦に侵略され西河を奪われることになる。 | ||
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+ | 楚では時の君主悼王に寵愛され、令尹(宰相)に抜擢され法家的な思想を元とした国政改革に乗り出す。元々楚は宗族の数が他の国と比べてもかなり多かったため、王権はあまり強くなかった。また国土は広かったが人の居ない地が多く、仕事の割に官職の数が多かった。これに呉起は、法遵守の徹底・不要な官職の廃止などを行い、これにより浮いた国費で兵を養った。また領主の権利を三代で王に返上する法を定め、民衆、特に農民層を重視した政策を取った。これらにより富国強兵・王権強化を成し遂げ、楚を南は百越を平らげ、北は陳・蔡の二国を併合して三晋を撃破、西は秦を攻めるほどの強盛国家にした。この事から呉起は法家の元祖と見なされる事もある(ただし管仲や伝説の太公望も、その政治手法は法家的とされ、時代的には古い)。しかしその裏では権限を削られた貴族たちの強い恨みが呉起に向けられ、呉起もそれを察知していた。呉起が無事なのは悼王の寵愛があればこそだが、悼王は既に高齢であった。 | ||
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+ | 紀元前381年、悼王が老齢で死去すると、反呉起派は呉起を殺害するために宮中に踏み込んだ。逃れられない事を悟ると呉起は悼王の死体に覆いかぶさり、遺体もろとも射抜かれて絶命した。政権空白期の事故である。父の後を継いだ粛王は、反呉起派の放った矢が亡父の悼王にも刺さった事を見逃さず、巧みに「王の遺体に触れた者は死罪」という楚の法律(かつて伍子胥が王の死体に鞭打ったために、このような法律があった)を持ち出し、悼王の遺体を射抜いた改革反対派である者たちを大逆の罪で一族に至るまで全て処刑した。死の間際において呉起は、自分を殺す者たちへの復讐を目論み、かつ改革反対派の粛清を企てたのである。 | ||
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+ | しかしこの機転にもかかわらず、呉起の死により改革は不徹底に終わり、楚は元の門閥政治へと戻ってしまった。この半世紀後、呉起と並び称される法家商鞅が秦にて法治主義を確立。結局商鞅も恨みを持つ者たちにより処刑されたが、秦はその後も法は残した。そして王と法の元に一体となった秦は着実に覇業を成し遂げていき、楚も滅ぼしたのとは対象的な結果となっている。 | ||