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周瑜 [2020/06/10 00:56] moepapa ↷ 廉頗_れんぱ から 後漢知将 へページを名称変更しました。 |
周瑜 [2021/03/28 13:13] (現在) moepapa |
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- | 廉 頗(れん ぱ、拼音:Lían Pō、生没年不詳)は、中国戦国時代の趙の将軍。藺相如との関係が「刎頸の交わり」として有名。 | + | |
- | 紀元前283年、将軍となり秦を討ち、昔陽を取る。紀元前282年、斉を討ち、陽晋(現在の山東省)を落とした。この功により上卿に任ぜられ、勇気のあることで諸侯の間で有名となる。 | + | |
- | 天下統一をねらう秦は白起を中心に他国への侵略を開始。廉頗と相如が健在であるうちは秦に侵攻されなかった趙も、この頃になると相如は病に倒れ、廉頗も高齢となっていた。紀元前260年、秦は王齕に趙の上党を陥落させる。廉頗は上党の避難民を救出するために派遣されたが、秦軍の勢いを目の当たりにした廉頗は要塞に籠城。戦いを長期戦に持ち込む。 | + | 周 瑜(しゅう ゆ、拼音: |
- | 敵地で長期戦になることに危機感を抱いた秦は一計を案じ、歴戦の猛者である廉頗に代わって、若く経験不足の趙括が総大将になるように仕向けた。この策にまんまとかかった趙の孝成王は総大将を交代させる。これを聞いた相如は重病ながらも王宮に出向き、孝成王を諫めたが聴きいれられず、結局趙軍は敗れ、捕虜となった40万の兵士が生き埋めにされた(長平の戦い)。以後、趙は滅亡の一途をたどっていくのであるが、廉頗は老骨に鞭打って戦争に参加した。長平の戦いのあと、趙の衰退を見た燕王喜は趙に軍を侵攻させるが、廉頗は現在の河北省柏郷県北部で燕軍を大いに破り、逆に追撃して燕都の薊を包囲し、燕から5城を取って和睦した。また秦も廉頗のいる趙には手が出せず、趙の孝成王は廉頗の長年の功績を称えて尉文という邑の地を与えて信平君に封じ、紀元前251年に平原君が死去したため空席になっていた相国代行に任命された。 | + | 廬江郡の周家は後漢朝において、高祖父の周栄が尚書令になったのを始めに、従祖父の周景・従父の周忠が三公の1つである太尉を務めた名家である。父の周異も洛陽県令となっている。周瑜は成人すると立派な風采を備えるようになった。 |
- | 刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)は、中国の戦国時代に趙で活躍した、藺相如と廉頗が残した故事。刎頸の友ともいう。『史記』原文には「刎頸(之)交」とある。刎頸とは斬首のことで、「お互いに首を斬られても後悔しないような仲」という成語として用いられる。 | + | |
- | 『史記』によると、藺相如は大国秦との外交で体を張って宝物「和氏の璧」と趙の面子を守り、趙王に仕える宦官の食客から上卿(大臣級)に昇格した。しかし歴戦の名将である廉頗は、口先だけで上卿にまで昇格した藺相如に強い不満を抱いた。それ以降、藺相如は病気と称して外にあまり出なくなった。 | + | 孫堅が反董卓の連合軍に参加した際、彼の息子孫策の名声を聞いた周瑜は寿春に赴き、孫策と面会した。同い年の両者は親交を結んだ。孫策に舒への徙居を勧め、孫策はこれに従った。周瑜は大きな屋敷を孫策の一家に譲り、家族同然の付き合いをしたという。 |
- | ある日、藺相如が外出した際に偶然廉頗と出会いそうになったので、藺相如は別の道を取って廉頗を避けた。その日の夜、藺相如の家臣たちが集まり、主人の気弱な態度は目に余ると言って辞職を申し出た。だが藺相如は、いま廉頗と自分が争っては秦の思うつぼであり、国のために廉頗の行動に目をつぶっているのだと諭した。 | + | 立派な風采をしていた。知略・武略に優れており、その才能は曹操や劉備からも恐れられるほどであった。実際に曹操は蒋幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようとしたが、いずれも失敗に終わっている。 |
- | + | 寛大な性格で人心を掴むことが得意だった。しかし宿将の程普とだけは折り合いが悪く、程普は若輩の周瑜を度々侮辱していたのだが、周瑜はあくまで膝を屈して謙り続けたので、その謙譲さに程普も遂に感服し、周瑜を尊重するようになった。 | |
- | この話が広まって廉頗の耳にも入ると、廉頗は上半身裸になり、いばらの鞭を持って、「藺相如殿、この愚か者はあなたの寛大なお心に気付かず無礼をしてしまいました。どうかあなたのお気の済むまでこの鞭で儂をお打ち下され」と藺相如に謝罪した。藺相如は「何を仰せられます、将軍がいてこその趙の国です」と、これを許し、廉頗に服を着させた。廉頗はこれに感動し「あなたにならば、たとえこの首をはねられようとも悔いはありませぬ」と言い、藺相如も同様に「私も、将軍にならば喜んでこの首を差し出しましょう」と言った。こうして二人は互いのために頸(首)を刎(は)ねられても悔いはないとする誓いを結び、ここに「刎頸の友」という言葉が生まれた。この二人が健在なうちは秦は趙に対して手を出せなかった。 | + | 若い頃より音楽に精通しており、演奏を聴いていると、たとえ宴会中酒盃が三度回った後でも僅かな間違いに気付いた。そのため当時の人々は「曲に誤りあれば周郎が振り向く」という歌を作って囃したという。 |
+ | 主君の孫策·孫権との関係は親しかった。孫策とは同年で年少の頃から知り合い、ともにお互いの母親へ挨拶するなど良好な関係だった。呉夫人も孫権に対し、周瑜を兄として仕えるよう命じている。孫権はしばしば周瑜に衣服を下賜し、夏服冬服合わせると百着にもおよんだが、諸将で彼に比肩できる者はいなかった。 | ||
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