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王翦 [2020/03/07 18:09] moepapa 作成 |
王翦 [2021/03/28 13:19] (現在) moepapa |
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- | {{: | + | 王 翦(おう せん、生没年不詳)は、中国戦国時代の秦の将軍。頻陽県東郷(現在の陝西省渭南市富平県の北東)の人。王賁の父。王離の祖父。秦王政(後の始皇帝)に仕えた戦国時代末期を代表する名将で、趙・楚を滅ぼすなど秦の天下統一に貢献した。 |
- | 白 起(はく き、? - 紀元前257年11月)は、中国・戦国時代末期の秦の武将。公孫起とも表記される。秦国郿(現在の陝西省宝鶏市眉県)の人。昭襄王に仕え、各地を転戦して趙・魏・楚などの軍に数々の勝利を収め、秦の領土拡大に貢献した。 | + | 秦王政の11年に初めて史書に登場し、同僚の楊端和らと共に鄴を攻めて、さまざまな計略を用いてこれを陥落させている。これ以降、政に重用されていたが、老年になってからは重用されなくなった。 |
- | 紀元前294年、左庶長に任ぜられ、韓の新城を攻めた。紀元前293年、左更にすすみ、韓・魏を攻め、伊闕の戦い(中国語版)で24万を斬首した。また、魏将公孫喜を捕え、5城を落とした。紀元前292年、魏を攻め、大小61城を落とした。紀元前278年、楚を攻め、鄢郢の戦い(中国語版)で楚の首都郢を落とした。このため、楚は陳に遷都した。同年、武安君の称を賜っている。紀元前273年、魏の華陽を攻め、華陽の戦い(中国語版)で韓・魏・趙の将軍を捕え、13万を斬首した。同年、趙将賈偃と戦い、その士卒2万を黄河に沈めた。紀元前264年、韓の陘城を攻め、陘城の戦い(中国語版)で5城を落とし、5万を斬首した。紀元前260年の長平の戦いでは、巧みな用兵で趙括率いる趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝した。このとき20万余りに及ぶ捕虜の兵糧が賄えず、反乱の恐れがあるとして少年兵240人を除く全てを生き埋めにした。 | + | {{: |
- | しかし、本国にあった宰相范雎が、長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。紀元前259年、秦は、王陵を起用して邯鄲を包囲し、翌紀元前258年には増派もして、さらに指揮官を王齕に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫した。この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。『戦国策』によれば、この時慌てた范雎と国王が自ら指揮を乞うも、白起は趙が国力を回復して討ち難いとして応えなかったうえ、王齕の敗戦を「だから言ったことではない」と批判したという。これがさらに立場を悪くし、紀元前257年、ついに昭襄王によって自害させられた。 | + | ===== 生涯 ===== |
- | 自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか。なぜ自害せねばならぬのか」と。しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平の戦いにおいて降伏兵数十万余りを一夜で生き埋めにした。それでも罪にならないのか。天に対し罪を犯したのだ」と嘆息した。秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。 | + | |
+ | 紀元前236年(始皇11年)、桓齮・楊端和らと趙の鄴を攻めて、先ず9城を取る。王翦は一人で閼与などを攻める。それから、皆兵をあわせて一軍とした。将軍になると18日間で軍中の斗食以下の功労のない者を帰らせ、軍をおよそ5分の1に減らし精鋭揃いに編成した。そして、それまで落とせなかった鄴などを落とす。 | ||
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+ | 紀元前229年(始皇18年)、秦は王翦に大軍の指揮を執らせ、羌瘣・楊端和とともに趙を攻めさせた。王翦は上郡地方の軍の将として、趙の井陘を降した。趙将李牧と司馬尚が王翦の相手となったが、讒言によって李牧は誅殺、司馬尚は更迭された。その後、趙葱と斉将顔聚が彼らの地位に代わった。 | ||
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+ | 紀元前228年(始皇19年)、王翦は李牧誅殺の3か月後に趙葱・顔聚を破り、趙都の邯鄲を陥落させた。また、羌瘣とともに東陽を平定し、逃げていた趙の幽繆王を捕らえた。しかし、趙の公子嘉が自立して代王になる。さらに兵を指揮して燕を攻めようとして中山(現在の山西省北部)に駐屯した。 | ||
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+ | 紀元前227年(始皇20年)、辛勝とともに燕を攻めて、燕・代連合軍を易水の西に破った。 | ||
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+ | 紀元前226年(始皇21年)、子の王賁とともに燕都の薊を攻め、燕の太子丹の軍を破って、薊を平定した。このとき、太子丹の首を得た。しかし、燕王喜は遼東に逃げて、なお命脈を保った。この年、老病の故をもって、将軍を辞して帰る。 | ||
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+ | 紀元前224年(始皇23年)、秦王政より要請を受け、再び軍の将として、楚を攻めた。河南の陳から南の平輿までの地を占領して、楚王負芻を捕らえる。 | ||
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+ | 紀元前223年(始皇24年)、蒙武と楚を攻める。楚王となった昌平君は戦死し、項燕は自殺した。 | ||
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+ | 紀元前222年(始皇25年)、秦は大いに兵を輿して、王翦と蒙武はついに楚の江南を平定する。また、東越の王を降して、ここに会稽郡を置いた。翌年、秦は斉を滅亡させ、天下を統一する。 | ||
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+ | 楚の平定に当たり、政から諸将へ見通しを問われた際、王翦は「兵60万が必要」と慎重な意見を述べたが、政は若い将軍の李信の「兵20万で十分」という積極的で勇猛に聞こえる意見を採用し、楚への侵攻を任せた。ここで王翦は自ら引退を申し出て隠居する。しかし、楚へ侵攻した秦軍は、楚軍の奇襲を受けて大敗した。楚軍はその勢いのままに秦へ向けて進軍し、楚の平定どころか秦が滅亡しかねない程の危機となった。政は楚を破れるのは王翦しかいないと判断し、王翦の邸宅を自ら訪ねて将軍の任を与え、王翦が先に述べた通り60万の兵を与える。これは秦のほぼ全軍であり、反乱を起こすには十分過ぎる数だったため、臣下には疑いを抱く者も多数いた。 | ||
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+ | 王翦は、楚軍の迎撃に出るが、政自ら見送った席のみならず、行軍の途中ですら、勝利後の褒美は何がいいか、一族の今後の安泰は確かかなどを問う使者を政に逐一送った。そして国境付近に到着すると、堅固な砦を築いて楚軍を待ち受けた。楚軍もここへ到着し砦を攻め始めたが、その堅牢さに手を焼いた。一方の秦軍も防御に徹して砦から出なかったため、膠着状態となった。楚軍は、攻めても挑発しても秦軍の出てくる気配が全くなく、砦も堅牢なため、これでは戦にならないと引き上げ始めた。しかし、これこそ王翦の待っていた機会であった。追撃戦で楚軍を破るために、砦に篭る間も兵達に食料と休息を十分に与え、英気を養っていたのである。英気が余って遊びに興じる兵達を見て、王翦は「我が兵はようやく使えるようになったぞ」と喜んだという。王翦が指揮を執る秦軍は、楚軍の背後から襲い掛かり、戦闘態勢になかった楚軍を散々に打ち破った。王翦は、さらに楚に侵攻し、翌年にこれを滅ぼした。 | ||
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+ | 王翦は、政に逐一送った使者について、部下から「余りに度々過ぎます。貴方はもっと欲の無い人だと思っていましたが」と訊ねられた際、「お前は秦王様の猜疑心の強さを知らない。今、私は反乱を起こそうと思えば、たやすく秦を征し得るだけの兵を指揮している。秦王様は自ら任せたものの、疑いが絶えないだろう。私は戦後の恩賞で頭が一杯であると絶えず知らせることで、反乱など全く考えていないことを示しているのだ」と答えた。 | ||
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+ | 王翦は政の猜疑心の強さを良く理解していた。引退を申し出たのも、政は役に立つ人間には丁重だが、役に立たないと判断した人間には冷淡で、特に権勢があるものはどれだけ功績があろうとも些細な疑いで処刑・一族皆殺しにしかねなかったためである(呂不韋・樊於期という実例もある)。自分の意見が採用されなかったことで、政が「王翦は老いて衰え、弱気になった」と思っていると察し、素早く将軍の座から退いた。実際に引退を申し出た際、政は全く引き止めなかった。このため、政本人から将軍に請われ、ほぼ全軍を与えられてもいい気にならず、猜疑を打ち消す心配りを絶やさなかったのである。 | ||
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+ | 王翦は、楚の平定後も政に疑いを持たれることなく、天寿を全うすることが出来たと言われる。 | ||
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+ | ===== 子孫 ===== | ||
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+ | 死後、子の王賁が跡を継いだ。王賁の子に王離がいる。 | ||
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+ | 『新唐書』宰相世系表二中によると、王離は秦の武城侯となり、彼には王元・王威という息子がいたという。息子たちは秦の戦乱を避けて山東に移住し、その末裔からは、後世に漢の王吉・王駿・王崇、三国魏の王雄、晋の王祥・王導・王敦・王羲之らを輩出した。いわゆる魏晋南北朝時代に名を馳せた琅邪王氏である。つまり、琅邪王氏は、王離の末裔とされるのである。ただし、『漢書』王吉伝では王離と王吉の関係について触れておらず、『新唐書』の系図の信憑性には疑問がある。 |