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白起


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白起 [2020/06/10 00:46]
moepapa
白起 [2021/03/28 13:18] (現在)
moepapa
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-====== 戦国時代武将 ====== +====== 白起(はくき) ======
-中国の戦国時代、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでの期間に存在した武勇優れる将軍情報です。+
  
-----+{{:200px-bai_qi.jpg?nolink&400|}}
  
-===== 廉頗れんぱ) ===== +白 起はく き - 紀元前25711月)は、中国戦国時代末期将。公孫起も表記される。秦国郿(現在の陝西宝鶏市眉県の人。昭襄王に仕え、各地転戦て趙・魏・楚など数々の勝利を収め領土拡大に貢献した
-廉 頗(れん ぱ、拼音:Lían Pō、生没不詳)は、中国戦国時代のの将藺相如の関係が「刎頸の交わり」として有名 +
-紀元前283年、将軍となりを討ち、昔陽を取る。紀元前282年、斉を討ち、陽晋(現在の山東省)を落とた。こより上卿に任ぜられ勇気あることで諸侯の間で有名となる+
  
-天下統一をねう秦は白起を中心に他国へ侵略開始。廉頗と相如が健在であるうちは秦に侵されなかった趙も、この頃になると相如は病に倒れ、廉頗も高齢となっていた。紀元前260年、秦は王齕趙の上党陥落させる。廉頗は上党の避難民を救出するたに派遣されたが秦軍勢いを目の当たりにした廉頗は要塞に籠城。戦いを長期戦に持ち込む。 +紀元前294年、左庶長に任ぜれ、韓新城を攻た。 
- +紀元前293年、左更すすみ、韓・魏め、伊闕の戦い(中国語版)24万斬首した。また、魏公孫喜捕え5城とした。 
-敵地長期戦になることに危機感抱いた秦は一計を案じ、歴戦の猛者である廉頗に代わって、若く経験不足の趙括が総大将になるように仕向けた。この策にんまとかかっ趙の孝成王は総大将を交代させる。これを聞いた相如は重病ながらも王宮に出向き孝成王諫めたが聴きいれられず、結局趙軍は敗れ、捕虜なった40万の兵士が生き埋めにされた(長平の戦い)。以後、趙は滅亡の一途をたどっていくのであるが、廉頗は老骨に鞭打って戦争に参加した。長平の戦いのあと趙の衰退見た燕王喜は趙に軍を侵させるが廉頗は現在の河北省柏郷県北部で燕軍をいに破り、逆に追撃して燕都の薊を包囲し、燕から5城を取って和睦した。また秦も廉頗のいる趙には手が出せず、趙の孝成王は廉頗の長年の功績を称えて尉文という邑の地を与えて信平君に封じ、紀元前251に平原君が死去したた空席になってた相国代行に任命された。 +紀元前292年を攻、大小61城を落とした。 
-刎頸の交わりふんけいのまじわり)は、中国の戦国時代に趙で活躍した、藺相如廉頗が残した故事刎頸友ともいう。『史記』原文は「刎頸(之)交」とある刎頸とは斬首ことで、「お互いに首斬られも後悔しなような仲」という成語として用いられる。 +紀元前278、楚を攻、鄢郢の戦い(中国語版)で楚首都郢を落とした。ため、楚は陳遷都した同年、武安君賜っている。 
- +紀元前273年華陽攻め華陽戦い中国語版で韓・魏・趙の将軍を捕え13万斬首した。同年趙将賈偃その士卒2万黄河に沈めた。 
-『史記』によると藺相如は大国秦と外交で体張って宝物「和氏の璧」と趙の面子を守り趙王に仕える宦官食客から上卿大臣級に昇格した。しかし歴戦である廉頗は口先だけで上卿にまで昇格した藺相如に強い不満抱いた。それ以降、藺相如は病気と称て外にあまり出なくなった。 +紀元前264年陘城を攻め陘城戦い(中国語版)で5城を落とし、5万斬首した。 
- +紀元前260年長平戦いでは巧み用兵で趙括率る趙軍兵糧攻め込み大勝した。このとき20万余り及ぶ捕虜の兵糧賄えず反乱として少年兵240人を除く全てを生き埋めにした。
-ある日藺相如が外出した際に偶然廉頗出会いそうになったで、藺相如は別の道取って廉頗を避けた。その日の夜藺相如家臣たちが集まり主人気弱な態度は目に余る言って辞職を申出た。だが藺相如はいま廉頗と自分が争っては秦の思うつぼであり、国のために廉頗の行動に目つぶっているのだと諭した。 +
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-話が広まって廉頗耳にも入ると廉頗は上半身裸にり、ばらの鞭持って、「藺相如殿、この愚か者はあなたの寛大なお心気付かず無礼をしてしました。どうかあなたのお気の済むまでこの鞭で儂をお打ち下され」藺相如謝罪した。藺相如は「何を仰せられます、将軍いてこその趙の国です」とこれを許し、廉頗に服を着させた。廉頗はこれに感動し「あなたにならば、たとえこ首をはねらようとも悔いはりませぬ」言い、藺相如も同様に「私も、将軍にならば喜んでこの首を差し出しましょう」と言った。こうしては互いのために頸(首)刎(は)ねられも悔いはないとする誓い結び、ここに「刎頸の友」という言葉がまれた。この二人が健在なうちは秦は趙て手を出せなかった。+
  
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-----+しかし、本国にあった宰相范雎が、長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。紀元前259年、秦は、王陵を起用して邯鄲を包囲し、翌紀元前258年には増派もして、さらに指揮官を王齕に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫した。この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。『戦国策』によれば、この時慌てた范雎と国王が自ら指揮を乞うも、白起は趙が国力を回復して討ち難いとして応えなかったうえ、王齕の敗戦を「だから言ったことではない」と批判したという。これがさらに立場を悪くし、紀元前257年、ついに昭襄王によって自害させられた。
  
-===== 白起 ===== +自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか。なぜ自害せねばならぬのか」と。しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平の戦いにおいて降伏兵数十万余りを一夜で生き埋めにした。それでも罪にならないのか。天に対し罪を犯したのだ」と嘆息した。秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。
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-白 起(く き? - 紀元前257年11月)は、中国・戦国時代末期の秦の武将。公孫起とも表される。秦国郿(現在の陝西省宝鶏市眉県)の人。昭襄王仕え各地転戦して趙・魏・楚などの軍に数々の勝利を収め秦の領土拡大に貢献した。 +司馬遷は、『史おいて白起「料敵合変出奇無窮声震天下(敵能力図って作戦をえ、奇策無限に繰り出した。彼の勢威は天下震わせた)している。一方で末尾に「非常に有能な将軍であっ、(身内あるはずの范雎のいから逃れができなった」し、王翦と共優れ人物でありな欠点もあっ人物であっと評価する将軍鄧艾讒言をう殺さる前に、自ら白起にならえて危機悟ったとの記述が『三国志』ある
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-紀元前294年左庶長に任ぜられ、韓新城攻めた。紀元前293年、左更にすすみ、韓・魏を攻め、伊闕のい(中国語版)で24万斬首した。また、魏将公孫喜を捕え、5城落とした。紀元前292年、魏攻め、大小61城を落とし。紀元前278年、楚を攻め、鄢郢の戦い(中国語版で楚の首都郢を落とした。このため、楚は陳に遷都した。同年、武安君の称を賜っている。紀元前273年華陽を攻め、華陽の戦い(中国語版)で韓・魏・趙の将軍を捕え、13万を斬首し。同年趙将賈偃と戦い、その士卒2万を黄河に沈めた。紀元前264年、韓の陘城を攻め、陘城の戦い中国語版)で5城を落とし、5万を斬首した。紀元前260年の長平の戦いでは、巧みな用兵で趙括率いる趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝した。このとき20万余りに及ぶ捕虜の兵糧が賄え、反乱恐れがあるとして少年兵240人を除く全てを生き埋めにした。 +
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-しかし、本国にあった宰相范雎が、長平での白起の活躍を自らの地位を脅すものであるとして警戒し、さに趙の首都邯鄲に攻め込もうとす白起を押しどめ、わずな条件で趙和議を結んだ。紀元前259年、秦は、王陵を起用して邯鄲を包囲し、翌紀元前258年には増派もして、さらに指揮官を交代させたが、趙の援軍として現れ魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫し。この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連范雎の行動に不信感を抱き病と称して出仕を拒んだ。『戦策』によれば、こ時慌てた范雎と国王自ら指揮も、白起は趙が国力を回復し討ち難いとして応えなかったうえ、王齕の敗戦を「だから言ったことではない」と批判したという。こがさら立場を悪くし紀元前257年、ついに昭襄王によって害させれた。 +
-自害の直前、白起はこのよう自問した。「我に何の罪あるか。なぜ自害せねばならぬのか」と。しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平戦いにおいて降伏兵数十万余り一夜で生き埋めにし。それでも罪にならないのか。天に対し罪を犯したのだ」嘆息した。秦民衆は彼の死を哀れみ、各地廟を建てて祀ったという+
  
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白起.1591717570.txt.gz · 最終更新: 2020/06/10 00:46 by moepapa