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廉頗


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廉頗 [2021/02/15 20:18]
moepapa 作成
廉頗 [2024/01/07 23:39] (現在)
moepapa
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 紀元前283年、将軍となり秦を討ち、昔陽を取る。紀元前282年、斉を討ち、陽晋(現在の山東省)を落とした。この功により上卿に任ぜられ、勇気のあることで諸侯の間で有名となる。 紀元前283年、将軍となり秦を討ち、昔陽を取る。紀元前282年、斉を討ち、陽晋(現在の山東省)を落とした。この功により上卿に任ぜられ、勇気のあることで諸侯の間で有名となる。
  
-天下統一をねらう秦は白起を中心に他国への侵略を開始。廉頗と相如が健在であるうちは秦に侵攻されなかった趙も、この頃になると相如は病に倒れ、廉頗も高齢となっていた。紀元前260年、秦は王齕に趙の上党を陥落させる。廉頗は上党の避難民を救出するために派遣されたが、秦軍の勢いを目の当たりにした廉頗は要塞に籠城。戦いを長期戦に持ち込む+天下統一をねらう秦は白起を中心に他国への侵略を開始。廉頗と相如が健在であるうちは秦に侵攻されなかった趙も、この頃になると相如は病に倒れ、廉頗も高齢となっていた。
  
-敵地で長期戦になることに危機感を抱いた秦は一計を案じ、歴戦の猛者である廉頗に代わって、若く経験不足の趙括が総大将になるように仕向けた。この策にまんまとかかった趙の孝成王は総大将を交代させる。これを聞いた相如は重病ながらも王宮に出向き、孝成王を諫めたが聴きいれられず、結局趙軍は敗れ、捕虜となった40万の兵士が生き埋めにされた(長平の戦い)。以後、趙は滅亡の一途をたどっていくのであるが、廉頗は老骨に鞭打って戦争に参加した。長平の戦いのあと、趙の衰退を見た燕王喜は趙に軍を侵攻させるが、廉頗は現在の河北省柏郷県北部で燕軍を大いに破り、逆に追撃して燕都の薊を包囲し、燕から5城を取って和睦した。また秦も廉頗のいる趙には手が出せず、趙の孝成王は廉頗の長年の功績を称えて尉文という邑の地を与えて信平君に封じ、紀元前251年に平原君が死去したため空席になっていた相国代行に任命された。+紀元前260年、秦は王齕に趙の上党を陥落させる。廉頗は上党の避難民を救出するために派遣されたが、秦軍の勢いを目の当たりにした廉頗は要塞に籠城。戦いを長期戦に持ち込む。 
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 +敵地で長期戦になることに危機感を抱いた秦は一計を案じ、歴戦の猛者である廉頗に代わって、若く経験不足の趙括が総大将になるように仕向けた。この策にまんまとかかった趙の孝成王は総大将を交代させる。これを聞いた相如は重病ながらも王宮に出向き、孝成王を諫めたが聴きいれられず、結局趙軍は敗れ、捕虜となった40万の兵士が生き埋めにされた(長平の戦い)。以後、趙は滅亡の一途をたどっていくのであるが、廉頗は老骨に鞭打って戦争に参加した。 
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 +紀元前251年、長平の戦いのあと、趙の衰退を見た燕王喜は趙に軍を侵攻させるが、廉頗は現在の河北省柏郷県北部で燕軍を大いに破り、逆に追撃して燕都の薊を包囲し、燕から5城を取って和睦した。 
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 +また秦も廉頗のいる趙には手が出せず、趙の孝成王は廉頗の長年の功績を称えて尉文という邑の地を与えて信平君に封じ、紀元前251年に平原君が死去したため空席になっていた相国代行に任命された。
  
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 紀元前245年、廉頗は魏に侵攻して繁陽(現在の河北省内黄県)の城を攻め落とした。だが、直後に孝成王が崩御して悼襄王が即位すると、廉頗は悼襄王によって将軍職を罷免させられた。その事を恨んで後任の将軍の楽乗を攻撃して撃破する。これにより廉頗は趙に居られなくなり魏の大梁(現在の河南省開封市北西)へ亡命する。楽乗もまた他国へ亡命してしまう。だが、魏では信任されなかったために大軍を率いる事は無かった。 紀元前245年、廉頗は魏に侵攻して繁陽(現在の河北省内黄県)の城を攻め落とした。だが、直後に孝成王が崩御して悼襄王が即位すると、廉頗は悼襄王によって将軍職を罷免させられた。その事を恨んで後任の将軍の楽乗を攻撃して撃破する。これにより廉頗は趙に居られなくなり魏の大梁(現在の河南省開封市北西)へ亡命する。楽乗もまた他国へ亡命してしまう。だが、魏では信任されなかったために大軍を率いる事は無かった。
  
-廉頗のいなくなった趙は、秦王政(後の始皇帝)の下でさらなる強国になろうとしていた秦の格好の標的とされた。そのため、趙は廉頗のもとに使者を送って帰参を許そうと図る。廉頗は年老いても「一飯に斗米、肉十斤、甲を被り馬に上り」といわれるほどに元気な姿を使者に見せて帰参を承知した。だが、廉頗が趙にいた頃から不仲だった奸臣である郭開の謀略で使者が買収されてしまう。そして、趙王が廉頗の様子を伺うと、使者は「三度遺矢」と讒言した。このため、趙王は廉頗が高齢で使いものにならないとして諦めたという。+廉頗のいなくなった趙は、秦王政(後の始皇帝)の下でさらなる強国になろうとしていた秦の格好の標的とされた。そのため、趙は廉頗のもとに使者を送って帰参を許そうと図る。廉頗は年老いても「一飯に斗米、肉十斤、甲を被り馬に上り」といわれるほどに元気な姿を使者に見せて帰参を承知した。だが、廉頗が趙にいた頃から不仲だった奸臣である郭開の謀略で使者が買収されてしまう。そして、趙王が廉頗の様子を伺うと、使者は「三度遺矢(「使者と会談中に3度も小用に立った」「使者と会談中に3度も失禁し、しかも気づかなかった」の意であり、どちらの意かは諸説ある)」と讒言した。このため、趙王は廉頗が高齢で使いものにならないとして諦めたという。
  
 廉頗は後に楚に亡命し、将軍に任命されるも功を立てることはなく、寿春で病没した。 廉頗は後に楚に亡命し、将軍に任命されるも功を立てることはなく、寿春で病没した。


廉頗.txt · 最終更新: 2024/01/07 23:39 by moepapa