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韓信


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韓信 [2024/01/08 00:35]
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韓信 [2024/01/08 22:20] (現在)
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 斉を平定した韓信は、劉邦に対して斉の鎮撫のため斉の仮の王となりたいと申し出た。劉邦は、自分が苦しい状況にあるのに王になりたいと言ってきた韓信に身勝手であると激しく反発したが、張良と陳平に認めなければ韓信は離反し斉王を自ら名乗って独立勢力となると指摘され、一転、懐柔のために「仮の王などとは言わずに、真の王となれ」と韓信に伝え、斉王韓信を認めた。韓信は旧戦国の七雄のうち大国の斉を領有し、河北の趙、燕を支配する大王となり西楚、漢、斉の三国が鼎立する局面となった。王となった韓信に項羽も恐れを感じ始め、武渉という者を派遣した。武渉は韓信に「劉邦は見逃してやっても(鴻門の会のこと)攻めてくるような義理のない信頼できない人物でありますから、貴方にとって従わない方が良い主君です。漢と別れ、楚と共に漢に対するべきです」と説いた。韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、一方で劉邦には大抜擢され斉王に封じられたことを恩義に思っていたため、これを即座に断った。その後、蒯通から「天下の要衝である斉の王となった今、漢、楚と天下を三分し、両者が争いに疲れた頃に貴方が出てこれをまとめれば、天下はついてきます」と天下三分の計を献策された。韓信は大いに悩んだが、謀反とは異なる「一勢力としての独立」という発想に得心が行かず、「漢王様は自らの衣を私に与え、車に同乗させてくれ、更には大将軍に任じてくれた。裏切ることができようか」と結局は劉邦への恩義を選び、これを退けた。絶望した蒯通は後難を恐れ、狂人の振りをして出奔した。 斉を平定した韓信は、劉邦に対して斉の鎮撫のため斉の仮の王となりたいと申し出た。劉邦は、自分が苦しい状況にあるのに王になりたいと言ってきた韓信に身勝手であると激しく反発したが、張良と陳平に認めなければ韓信は離反し斉王を自ら名乗って独立勢力となると指摘され、一転、懐柔のために「仮の王などとは言わずに、真の王となれ」と韓信に伝え、斉王韓信を認めた。韓信は旧戦国の七雄のうち大国の斉を領有し、河北の趙、燕を支配する大王となり西楚、漢、斉の三国が鼎立する局面となった。王となった韓信に項羽も恐れを感じ始め、武渉という者を派遣した。武渉は韓信に「劉邦は見逃してやっても(鴻門の会のこと)攻めてくるような義理のない信頼できない人物でありますから、貴方にとって従わない方が良い主君です。漢と別れ、楚と共に漢に対するべきです」と説いた。韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、一方で劉邦には大抜擢され斉王に封じられたことを恩義に思っていたため、これを即座に断った。その後、蒯通から「天下の要衝である斉の王となった今、漢、楚と天下を三分し、両者が争いに疲れた頃に貴方が出てこれをまとめれば、天下はついてきます」と天下三分の計を献策された。韓信は大いに悩んだが、謀反とは異なる「一勢力としての独立」という発想に得心が行かず、「漢王様は自らの衣を私に与え、車に同乗させてくれ、更には大将軍に任じてくれた。裏切ることができようか」と結局は劉邦への恩義を選び、これを退けた。絶望した蒯通は後難を恐れ、狂人の振りをして出奔した。
  
 +===== 絶頂期 =====
 +
 +その頃、楚漢の戦いは広武山での長い持久戦になっており、疲れ果てた両軍は一旦和睦してそれぞれの故郷に帰ることにした。しかし劉邦はこの講和を破棄し、撤退中の楚軍に襲いかかった。韓信も加勢の要請を受けるが、これを黙殺したために劉邦は敗れる。焦った劉邦は張良の進言により、韓信に対して三斉(斉、済北、膠東)王として改めて戦後の斉王の位を約束し、再び援軍を要請した。ここに及んで韓信は30万の軍勢を率いて参戦した。これを見て諸侯も続々と漢軍に参戦する。漢軍は垓下に楚軍を追い詰め、垓下を脱出した項羽は冬12月に烏江(現在の安徽省馬鞍山市和県烏江鎮)で自決し、5年に及んだ楚漢戦争はようやく終結した(垓下の戦い)。
 +
 +紀元前202年、項羽の死が確認されると、劉邦は「本来楚王となるべき義帝には嗣子が居ない。韓信は楚出身であり、楚の風土・風習にも馴染んでいる」として韓信を斉王から楚王へと移した。これは項羽亡き後の楚王であり、また楚には韓信の故郷があるため、名誉であり栄転であった。しかし一方で、城の数では七十余城から五十余城に減った。
 +
 +故郷の淮陰に凱旋した韓信は、飯を恵んでくれた老女、自分を侮辱した若者、居候させていた亭長を探して呼び出した。まず、老女には使い切れないほどの大金を与えた。次いで、かつての若者には「あの時、その方を殺すのは容易かったが、それで名が挙がるわけでもない。我慢して股くぐりをしたから今の地位にまで登る事ができたのだ」と言い、中尉(治安維持の役)の位につけた。亭長には「世話をするなら、最後までちゃんと面倒を見よ」と戒め、わずか百銭を与えた。
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 +===== 転落 =====
 +
 +劉邦はよく韓信と諸将の品定めをしていた。後述のように韓信は劉邦によって捕縛されることになるのだが、その後、劉邦が韓信に「わしはどれくらいの将であろうか」と聞くと、韓信は「陛下はせいぜい十万の兵の将です」と答えた。劉邦が「ではお前はどうなんだ」と聞き返したところ、「私は多ければ多いほど良い(多々益々弁ず。原文は「多多益善」)でしょう」と答えた。劉邦は笑って「ではどうしてお前がわしの虜になったのだ」と言ったが、韓信は「陛下は兵を率いることができなくても、将に対して将であることができます(将に将たり)。これは天授のものであって、人力のものではありません」と答えた。
 +
 +紀元前201年、同郷で旧友であった楚の将軍・鍾離眜を匿ったことで韓信は劉邦の不興を買い、また異例の大出世に嫉妬した者が「韓信に謀反の疑いあり」と讒言したため、これに弁明するため鍾離眜に自害を促した。鍾離眜は「漢王が私を血眼に探すのは私が恐ろしいからです。次は貴公の番ですぞ」と言い残し、自ら首を撥ねた。そしてその首を持参して謁見したが、謀反の疑いありと捕縛された。韓信は「狡兎死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が定まったので、私もまた煮られるのか?」と范蠡の言葉を引いた。劉邦は謀反の疑いについては保留して、韓信を兵権を持たない淮陰侯へと降格させた。
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 +韓信はそれ以降、病と称して長安の屋敷でうつうつと過ごした。ある時、舞陽侯の樊噲の所に立ち寄ると、韓信を尊敬する樊噲は礼儀正しく韓信を“大王”、自らを“臣”と呼んで最大限の敬いを見せたが、韓信は「生き長らえて樊噲などと同格になっている」と自嘲した。
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 +===== 最期 =====
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 +歳月は流れ、陳豨(中国語版)が鉅鹿郡守に任命された。韓信を尊敬していた陳豨は、出立にあたり長安の韓信の屋敷に挨拶にやってきた。韓信は陳豨に、あまりの冷遇にもはや劉邦への忠誠はなく、私が天下を取るまでだと言い放ち、一計を授けた。劉邦の信頼が篤い陳豨が謀叛すれば、劉邦は必ず激怒して自ら討伐に赴き、長安は空になる。しかし鉅鹿は精兵のいる要衝であるから、容易には落ちないだろう。そしてその隙に自分が長安を掌握する。反乱の頻発に現れているように天下には不満が渦巻いているので、諸国も味方に就くだろう、というのである。
 +
 +紀元前196年の春、果たして陳豨は鉅鹿で反乱を起こした。信頼する陳豨の造反に激怒した劉邦は、韓信の目論見通りに鎮圧のために親征し、都を留守にした。韓信は、この機会に長安で反乱を起こし、囚人を解放してこれを配下とし、呂后と皇太子の劉盈(のちの恵帝)を監禁して政権を奪おうと謀った。ところが、韓信に恨みを持つ下僕樂說がこれを呂后に密告したため、計画は事前に発覚した。呂后に相談された相国の蕭何は、韓信を普通に呼び出したのでは警戒されると考え、一計を講じる。適当な者を劉邦からの使者に仕立て「陳豨が討伐された」と報告をさせ、長安中に布告を出した。たちまち噂は広まり、長安在住の諸侯は祝辞を述べるために次々と参内した。韓信は計画が頓挫したと合点し、病気と称して自邸に引篭もっていたが、蕭何は「病身であることは知っているが、自身にかけられた疑いを晴らすためにも、親征成功の祝辞を述べに参内した方が良い」と招いた。そして韓信は何の疑いもなくおびき出され、捕らえられてしまう。事にあたっては用意周到に計画し、慎重さにも抜かりのなかった韓信だったが、自分を大いに買って引きとめ、大将軍に推挙してくれた蕭何だけは信用していたため、誘いに乗ってしまったのである。そして韓信は劉邦の帰還を待たずに長安城中の未央宮内で斬られ、死ぬ間際に「蒯通の勧めに従わなかったことが心残りだ」と言い残した。韓信の三族も処刑された。
  


韓信.txt · 最終更新: 2024/01/08 22:20 by moepapa